تسجيل الدخول「茶会、でございますか?」
「ああ」
向かいでは、
「軍の者と、付き合いのある華族を何人か招く。以前から決まっていたものだ」
「まあ。それは大変ですわね」 隣に座る
「兄様、こういうことは本当に不得手ですもの」
「俺が茶を点てるわけではない」「そういう意味ではございません。兄様はお客様がお帰りになるまで、一言もお話しにならないことがございますでしょう?」「用がなければ話す必要もない」「ほら、これですもの」小夜が呆れたように溜息をつき、麗香は思わず口元を緩めた。
数日前まで、冷酷軍閥と呼ばれる男との食卓で、このように笑う自分など想像もしていなかった。「それで」
朔が新聞を畳んだ。
「今回はお前にも
華族会館の大広間は、今宵も眩いばかりの光に満ちていた。 天井から吊るされた幾つもの電燈が磨き上げられた床を照らし、楽団の奏でる優雅な旋律が、色とりどりの衣装を纏った紳士淑女の間を流れてゆく。 香水と花々の匂いが入り混じるその空気は、かつて麗香が幾度となく身を置いてきた社交界のものであり、同時に、もう二度と戻ることはないと思っていた世界のものでもあった。「御影少将。これは、お久しゅうございます」 会場へ入って間もなく、年配の紳士が声をかけてきた。「ご無沙汰しております」 朔が会釈する。「今宵は奥方もご一緒ですか。お噂はかねがね伺っておりますよ」「妻の麗香です」 朔に促され、麗香は優雅に一礼した。「御影麗香でございます。以後、お見知りおきくださいませ」「いやはや、お美しい奥方だ。少将も隅に置けませんな」 紳士は上機嫌に笑い、軍務に関する話題を二言三言交わして去っていった。 それからも、朔へ挨拶に訪れる者は絶えなかった。 もっとも、朔自身は相変わらず愛想がよいとは言い難いが。「御影少将が奥方を伴って夜会へお出ましとは、珍しいこともあるものですな」「妻が出席を望んだので」「ほう。では、奥方に感謝せねばなりませんな」 そんなやり取りが何度か続くうちに、麗香は可笑しくなってしまった。 朔は社交が嫌いなのではない。ただ、必要以上に言葉を飾ることを好まないのだろう。 それでも、麗香が誰かと話している間は決して急かさず、相手の言葉にも静かに耳を傾けている。そのことが、麗香には嬉しかった。◇「御影夫人でいらっしゃいますわね」 朔が軍の知人と話し込んでいる間に、麗香へ声をかけてきたのは、品のよい藤色の訪問着を纏った中年の婦人だった。「はい。御影麗香でございます」 麗香が名乗ると、婦人もにこやかに名乗り、傍らに控えていた若い娘を紹介した。「娘でございます。こうした席にも、少しずつ慣れさせなくてはと思
初夏の陽射しが、御影家の庭に濃い緑の影を落としていた。 枝垂れ桜はとうに花を散らし、今は瑞々しい葉を風に揺らしている。季節が移ろうにつれ、屋敷の中を吹き抜ける風にも少しずつ夏の気配が混じり始め、麗香は朝の涼しいうちに窓を開け放つのが楽しみになっていた。 その日も、午前の用事を済ませて居間へ戻ったところで、志乃が一通の封書を持ってきた。「奥様。こちらをお預かりしております」 「私に、ですか?」 「はい。旦那様から、奥様にも目を通していただくようにと」 封を開けば、中には上質な厚紙に印刷された招待状が収められている。 そこには、華族会館で初夏の慈善夜会を催す旨が、格調高い文面で記されていた。 主催は、華族の夫人たちを中心とした慈善団体である。貧しい家庭の子女への教育支援や、戦争で一家の働き手を失った人々への援助などを目的として、毎年この時季に夜会を開いているのだった。「……華族会館」 口にすると、胸の奥に微かな痛みが走った。 慎太郎と珠緒の裏切りを知った夜。 煌びやかな灯りも、優雅に流れる音楽も、今となっては遠い昔のことのように思える。けれど、あの場所で味わった絶望だけは、そう簡単に忘れられるものではなかった。「奥様?」 志乃が心配そうに顔を覗き込む。「……いいえ。何でもございません」 麗香は小さく首を振った。 あの夜から、随分多くのことが変わった。 桐生家を離れ、御影家へ嫁ぎ、小夜という愛らしい義妹を得た。そして何より、朔という人を知った。 今の自分は、あの夜の自分とは違う。 そう思うと、不思議と心が落ち着いた。「朔様は、こちらへご出席なさるおつもりなのでしょうか」 「旦那様からは、奥様のご意向も伺うようにと申しつかっております」 「私の……」 麗香はもう一度、招待状へ目を落とした。 御影家の当主夫妻として、揃って出席することを求められているのだろう。軍の要職にある朔にとっても、華族たちとの交流は無視できないもののはずだった。 それでも、朔は麗香の意思を確かめようとしている。 そのことが、嬉しかった。「では、朔様がお戻りになってから、ご相談いたします」 「かしこまりました」 志乃が一礼して退室する。 麗香は招待状を卓へ置き、窓の外へ目を向けた。 風が吹いている
翌朝。 朝食を終えた小夜は、女学校へ出かける支度を済ませても、なかなか席を立とうとしなかった。「……兄様」 やがて、小夜が朔を呼んだ。「昨日のお話ですけれど……お断りしてくださいませ」 静かな声だった。 迷いがないわけではないのだろう。それでも、昨夜よりずっとはっきりしていた。「決めたか」「はい」 小夜が頷く。「私、もう少し学びたいです。今の女学校を出たあとも、できることなら、その先へ進んでみたいと思います」「分かった」 朔の返事は、それだけだった。「……それだけですの?」「他に何がある」「もう少し、何か……本当によいのか、とか」「昨夜聞いた」「そうですけれど」 小夜が拍子抜けしたような顔をする。 麗香は思わず微笑んだ。「朔様は、小夜さんのお気持ちがお決まりになれば、それでよかったのでしょう」「ああ」「ほら」「兄様は、こういう時くらい、もう少し妹を励ますお言葉などございませんの?」「自分で決めたのだろう。なら、それでいい」 朔は新聞を開き直す。「先方には俺から丁重に断っておく。お前は学校へ行け」「……はい」 小夜は少しだけ口を尖らせたものの、その顔には安堵が浮かんでいた。◇「今日、学校で聞いてみましたの」 その日の午後。 女学校から帰った小夜は、いつものように麗香と教本を開きながら、嬉しそうに話した。「卒業したあとも学べるところについて、先生に伺ってみました。文学をもっと学べるところも、外国語を学べるところもあるそうです」「まあ。もうお尋ねになったのですね」「はい。でも、お友達には驚かれてしまいました」
御影家へ帰ってきた翌日。 軍務を終えた朔は、夕刻の庁舎を出た。 空にはまだ明るさが残り、西へ傾いた陽が煉瓦造りの建物を赤く染めている。 迎えの自動車へ乗り込む。 窓の外を流れていく帝都の街並みを眺めながら、朔は無意識に右手を握った。 旅先で、滝江の家から出てきた後の。 あの時の麗香の重みを、まだ腕に覚えていた。 ――香は、しなかった。 以前の自分なら、それを意識したはずだった。 麗香は自分の番ではない。 探している女ではない、と。 だが、あの時はそんなことを考えもしなかった。 麗香が自分を頼った。 そして自分は、その麗香を抱き寄せたいと思った。 その「それだけ」が、朔にはひどく大切なことのように思えた。 父と母の間には、誰より強い契りの香と、番という絆があった。 それでも母は、幸せではなかった。 ならば、香がなくとも、自らの意思で誰かへ手を伸ばすことの方が、よほど――。「……」 そこまで考えて、朔は眉間を押さえた。 本当はもう、答えなど出かかっているのかもしれなかった。
その夜。 旅の疲れもあって、麗香はいつもより早く床へ入るつもりでいた。 入浴を済ませ、寝間着へ着替え、鏡台の前で髪を梳いていると。 こん、こん。 扉を叩く音がした。「はい」「麗香姉様。まだ起きていらっしゃいます?」「小夜さん?」 扉を開ける。 そこには、すでに寝間着へ着替えた小夜が立っていた。 長い髪も就寝用にゆるくまとめられている。「今夜、こちらで一緒に休んでもよろしいですか?」「……私と?」「はい」 思いもよらない申し出だった。 けれど、小夜はもう麗香の返事など決まっていると思っているらしく、嬉しそうに微笑んでいる。「駄目です?」「いいえ。駄目ではございませんけれど」「よかった」 小夜が部屋へ入ってくる。 麗香は扉を閉めながら尋ねた。「でも、どうして急に?」「だって」 小夜は寝台へ目をやった。「兄様とは、旅先でご一緒にお休みになったのでしょう?」「――なっておりません!」 思わず大きな声が出た。 小夜が目を丸くする。「まあ」「まあ、ではございません。お部屋は別々でした!」「そうなのですか?」「当然です!」「ご夫婦ですのに?」「朔様は、そのようなことを勝手になさる方ではございません!」 言い切ってから、麗香は、はたと気づいた。 小夜がにこにことこちらを見ている。「……何です?」「麗香姉様は、本当に兄様のことをよく分かっていらっしゃるのだなと思いまして」「それは……」 麗香は言葉に詰まった。「ともかく、別々のお部屋でした」「では」 小夜は満足そうに頷いた。「麗香姉様と一緒
帝都へ戻る汽車が停車場へ滑り込んだ時には、すでに午後の日も傾き始めていた。 扉が開く。 途端に、懐かしい喧騒が押し寄せてきた。 荷を運ぶ赤帽の声。 行き交う人々の靴音。 汽車が吐き出す白い蒸気に、石炭の匂い。 つい数日前にここから旅立ったばかりだというのに、麗香には随分久しぶりのように思えた。「では、僕はここで」 停車場を出たところで、清雅が足を止めた。「御影家へは寄られないのですか?」「ああ。僕まで帰宅についていったら、小夜ちゃんに『清雅様はご自分のお家がございませんの?』とでも言われそうだからね」「言いそうだな」「否定してくれないのかい?」 朔は答えなかった。 麗香は思わず笑う。「清雅様。この度は、本当にありがとうございました」「礼にはまだ早いよ。分かったことより、分からないことの方が多いからね」 清雅の言うとおりだった。 母が少女の頃、どのように笑っていたのか。 香が好きだったこと。 少しばかりお転婆だったこと。 そして、自分と同じように、人には分からない香を持っていたらしいこと。 知ることのできたものは多い。 けれど、その生まれも、本当の名も、なぜ桐生家へ嫁ぐことになったのかも、まだ分からないままだ。「調べておくよ。何か分かったら知らせる」「頼む」「では麗香さん。また近いうちに」「はい。お気をつけて」 清雅が人混みの向こうへ消えていく。 その姿を見送ってから、麗香は隣を見た。「俺たちも帰るぞ」「はい」 帰る――というその言葉が、不思議なくらい自然に胸へ落ちた。◇ 御影家の自動車が門をくぐる。 見慣れた庭。 見慣れた玄関。 初夏の日を浴びた木々の緑も、出発した時と何も変わっていない。 自動車が止ま







